狼はブラックコーヒーが好き

ブラックコーヒーみたいなブログ…かな? 飲みたい人は飲むだろうし、そうじゃない人は飲まない…。 たまには砂糖やミルク、入れることもあるかもね        

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# そりゃあないぜ、京セラさん

京セラが2月にガラホケータイ「トルク」を出していた。

オレは先月それを知って今モヤモヤした気分。

 

そして最近テレビではそれの興ざめなCMをやっている。まあそこはどーでもいーんだけれども。

 

スマホ嫌いのオレは、それまで長く使っていたカシオの「G’z Oneシリーズ」のケータイが故障して、発売後5年経ったらもう修理はしてくれないということで困りに困り、迷いに迷って、でもどーしても携帯電話は必要で、唯一 G’z One シリーズのスタイルを踏襲している京セラのスマホ「トルク」を去年の10月に買っている。その時点では今年に入ったらガラホケータイ「トルク」が発売されるなんて情報はなかった。予定があるんなら教えて欲しかったよ、京セラさん。

 

仕方なく買ったスマホとの仲は今だにうまくいってなくて、無用なアプリ、いらない情報の多さ、使いづらさ、わけのわからなさに辟易しながらつき合っている。しょっちゅうなんかよくわからない機能のアップロードを求めて来る。一度決めたらそれを貫けばいーじゃないか、めんどいなあ…と思ってしまう。みんないちいちスマホのそんな要求にホイホイ従っているんだろーか。いるんだろーな、道歩いてても電車の中でもどこでもみんなスマホに向かって何かしてるから。スマホに操られているように見える。

 

スマホのトルクにしてしまってから半年とちょっと。本体は何とか5万円台で買ったが、月々の支払いがケータイの時の2〜3倍になり、なんか納得が行かないまま来ている。今度のトルクはガラ系ではなくガラホだってことで、そうなるとシステムも変わって来るから月々の料金だってそれなりにかかって来るとは思うけど、今のスマホよりは高くならないだろうし、この際チェンジしてしまおーかって思ってる。

 

でもまだ元取ってないよーな気もしてる。けどストレスなく携帯電話とつき合いたい。・・・やっぱ替えたほーが得策か…。

 

 

 

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# オレ、なんで子供嫌いなんだろ…?

また前記事の続きみたいなものになるが…

 

オレは一体なんで子供が嫌いなんだろう…。考えてみた。

 

前記事にも書いたように、その辺の子供たちにオレは何の恨みつらみもないワケで…。じゃあ何故か…。

 

多分…

 

当然子供たちは人生経験も浅く、世間をそれほどにはわかっていない。中には意外と洞察力・学習能力に優れ、あるいは本能的にいろんなことをわかっている子もいるとは言え、たいていはわかっていないなりの言動をし、時には迷惑をかけて大人の手を焼かせたり、困らせたり泣かせたりするものだろう。

 

だからオレは子供のそういうところが嫌い…なのか…?

 

いや、そうじゃない気がする。たしかに一般的な常識や物事の道理をまだ知らないが故に迷惑な思いをさせられることは多々ある。でもそんなことは「子供だから仕方がない」と多くの人が思うようにオレも思うのだ。同時にその子供の親…「アンタはもっとしっかりせい!!」と。

 

オレの日常行動においてはそんな子供たちに遭遇することは、言ってみればそれほど多くはない。すれ違う大人たちのほうがはるかに多い。そしてやっぱり気づいてしまう…。

 

子供以上にまわりに迷惑をかけている大人たちのなんと多いことか…と。

 

そう、子供並みに世間を知らない、常識を知らない…と言うか、とにかく視野が狭くまわりを見ていない、頭を使って考えることをしない、学習しない…いや、「出来ない」大人たち…。

 

その結果彼らはまわりに大いに迷惑をかけ、しかしその認識がないから謝りもしない。それを怒ったり注意したりしても通じないどころかすぐ逆ギレする。…そういう知能的・精神的に成長できていない、子供よりタチの悪い大人たち…。そう、思わず「ガキか、お前は!」と思ってしまう人々。そういう人たちはホントのガキたち(子供たち)に失礼だよね。

 

もちろんそれは何らかの障害があったり、病気のためにそうなった人のことではなく、健常な大人の話だ。そういう人たちは障害者や病気の人たちに対しても失礼だね。

 

それなりに人生経験を経て来て、出来るはずなのに何も学習してなくて、その結果子供と同じレベルではあまりに情けない。子供なら「子供だから仕方がない」と思えることでも大人はそうはいかない。そうなるともう子供以下だ。

 

…となると、オレは大人が嫌いで、子供は好き…なのか…?

 

まあよくわからなくなって来たが、まだ常識知らず世間知らずの子供を見ていると、オレはその子がそのまま大人になった状態を無意識に想像してしまっているのかも知れない。何しろちゃんと成長していない大人をいっぱい見ているから。そしてそういう大人たちを見ると、こいつらも…失礼…この者たちも昔は純真無垢な子供だったんだろうな…みたいなことを思う。さらに、こいつら…いや失礼…この者たち、成長過程のどの時点で間違いが起こっちゃったんだろうね…などとも。

 

ということは、もしかしたらオレは子供が嫌いというよりも人間嫌いと言ったほうが合ってるのかも知れない。いやいや、それも子供嫌いと同じくらいあんまり望ましくないことだね。でも残念ながらそういうところはある気がする。

 

つまりは、子供を見てるとその子が大人になった姿が浮かんで来てしまうってことかな。さらにその親がちゃんとしてないとますますそれが濃いものになってしまうのだ。お前さん、そのままだとまわりにいるろくでもない大人のような大人になっちゃうぞ…って思って、この先の世が恐ろしくなるし。

 

逆に、子供嫌いとは言ってるものの、中にはオレと波長が合うとでも言うのか、何だか自分と対等に接することが出来るような子供ともわずかながら遭遇することもあり、そういう子を見ているとこのブログでも時々書いているように「そのままスクスク元気に育てよ」なんて思ったりする。その子の親の育て方がとってもいいのかも知れないし、その子自身の人間力でそうなったのかどうか、そこまではわからないけどね。

 


オレがまたこういうことを書くと、たまたまこれを読まれた方の中には「お前は何様だ?!」的なことを思われるお方もござりましょうから、オレ様とてまだまだ不完全な、おそらく「完全」にはなり切れない、しかし発展途上の人間だと申しておきましょうか。そして「発展途上である」ということにちょっぴり誇りを持っている人間様だということも。

 

 

 

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# リーブ・ミー・アロ〜ン

前記事に続いて子供関連の話…。

 

ちょっと前、テレビのニュースでだったか、公園でよその子に鉄棒を教えているおじさんがいて、これは「アリ」か「ナシ」か…みたいなことを言っていた。

 

ホント、これって前の記事で書いた「一線を越える困った人」が多く出て来るようになってからはビミョーな問題になって来たねー。

 

そういう「イケナイ人」さえいなければ、とても平和で微笑ましい大人と子供の公園でのワンシーンなんだけど…、まァ、オレなどは出来るだけその辺の子供たちには関わらないほうが無難…と近寄らないようにしている。子供好きじゃないし。

 

ところが…だ、

 

なんでだか、知らない子供のほうからオレに関わって来るケースが時々ある。

 

歩いていると、向こうから一人でやって来る小さい子がすれ違いざまに「こんにちわ」ってあいさつするんだよ。ビクってしちゃうね、まったく。まわりを見ても他に誰もいないし、その子を見るとオレのほうをじーっと見てる。たしかにそれはオレに向けられたあいさつで、思わずこちらも「こんにちわ」ってあいさつを返すんだけど…。

 

この間なんか、ある公園のベンチに座って次の仕事までの時間調整をしていたら、ベンチのうしろからシクシク…と女の子の泣き声がしたんだよ。何事?!とチラッと振り向くと、小さい女の子がしゃがんで泣いている。

 

オイオイ、そんなところで泣くのはやめてくれよ。オレは泣かせた覚えなんかないゾ。「シッシッ」な気分…。でも気になって「どうした? 大丈夫か?」とそっちを見ずに小さく声をかけた。返事はなかった。しばらくしてその子はどっかへ行ったらしく、とりあえずホッとした。

 

そしてまもなく時間になって、そろそろ行くか…とオレが公園を出たところ、「あの…」とうしろから小さな声が…。見ると、さっき泣いてた女の子が近づいて来る。何、何? オレに何の用?…ってな思いでいると、「ティッシュ、持ってないですか?」ってその子。あ、ティッシュね…「あるよ」とバッグからポケットティッシュを取り出し、多分涙を拭くんだろうと「これ、全部使っていいから」と言って手渡した。

 

こんな程度は「アリ」でしょ? 向こうから来たんだし。ティッシュが必要…という、ある意味緊急事態なワケだし。

 

その子はティッシュを受け取ると「ありがとうございます」としっかりとお礼を言った。その時オレたちの横をその辺のおばちゃんが通り過ぎた。オレは女の子に「じゃあね」と言って振り返らずにそそくさと次の仕事先へと向かった。

 

そもそもオレは、子供たちには何の恨みつらみもないけど好きじゃない。頼むからオレに近寄らないで…って気分。

 

しかしまァ、それでも何らかの理由で寄って来るのはしよーがない。がんばってそれなりに応対しよう。とは言え、子供たちと接するのによけいな気を使わないといけないなんて、めんどくさい、ヤな世の中になったもんだねー。

 

 

 

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# 一線越えちゃあ、おしまいよ

ちょっと前のこと…。千葉・松戸で小さい女の子がさらわれ殺されるという痛ましい事件があった。

 

犯人はあろうことかその女の子が通う小学校の保護者会の会長だったという。登校時の子供たちの見守りなどもよくやっていて、保護者会の会長なんておそらく誰もがやりたくないことを積極的にやっていたらしく、多分だけどその犯人はホントに子供が好きだったんだろうな、いろんな意味で。

 

いろんな意味で…というのは、純粋に子供が好きという部分と、もしかしたらだが、性的嗜好の部分もあったのかも…ということ。

 

人にはそれぞれいろんな趣味嗜好がある。アレが好き、コレが好き。ああいうこと、こういうことをするのがとても楽しい…自然なことだと思う。

 

しかし、自分の趣味嗜好で他人に迷惑をかけちゃいけない。他人を傷つけたり苦しめたりしてはいけない。…あたりまえのことだと思う。

 

他人を受動喫煙で苦しめる喫煙などはその代表的なものだと思う。

 

たとえ世間的にタブーなことであっても想像・妄想の域であれば仕方ないということも言えるが、そういうことを現実化しようとすると無理がある。とんでもないことになる可能性がある。

 

今度の悲劇はおそらくそのタブーを実行した結果の出来事なのでは…と勝手ながら思っている。何しろ犯人が黙秘しているらしいので…。

 

家族があって子供がいる身としてはとても恥ずかしくて真相を言えないのかも知れないね。でも言わなきゃ。洗いざらい吐いて罪は償わなきゃ…ね。そのほうがラクになれるだろうね、きっと。


何が好きでも、どんな趣味嗜好を持っていたとしても、それはそれで仕方のないことかも知れない。人は様々だから。でも、一線は越えちゃあいけないね。越えた先に待っているのは決してハッピー天国じゃない。自分自身が苦しみ、誰もが悲しむ地獄のステージがそこにはあるのかも知れない。

 

簡単に言えば、趣味はほどほどに…ってこと。

 

 

 

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# もったいない話

やっぱり他人の思いってのはなかなか理解出来ないものがあるもんだねえ。

 

お隣の国での話なんだけど、国のリーダー・国民の代表ともあるべき人があれだけよくないことをやってしまい、本来その地位にいる資格・資質がないことがわかってその職を追われるってだけなのに、そのまわりの大勢の人たちが弾劾賛成とか反対とか、死人まで出してどうしてそんなにエネルギーを使って暴れなきゃなんないんだろう…。

 

たとえばだけど、その当人が自ら「私間違ってました。ごめんなさい。責任とって今の仕事辞めます。もちろん罰を受けます。その上でお詫びの意味を込めて人々のために働きます。たとえば街のゴミ拾いしたり、汚れたところを掃除したり、非常識なことや悪いことをしている人に注意をしたり…」とか何とかすれば、あんなに国民が大興奮して無駄に時間やエネルギーを使わなくてもすむんじゃないのかなあ…。

 

多分そういう単純なことでも何故かみんなあえてややこしくして簡単にはいかないようになってしまってるんだろうねえ。おそらく何が単純で何が複雑なことなのかさえ、みんな考えるってことをしないから間違った方向に行ってしまっているってことなのかも知れないし…。

 

オレなどはあのニュースを見て、死人まで出しながらその命や生きる時間を、パワーやエネルギーを捨てるなんて、なんてもったいないことをするんだろうと思ってしまうのだが…。

 

 

 

 せやけど…なんでカレーやねん?

 

 

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# 雪の思い出

昨日今日あたり、リンクにある京都や滋賀の古き友人のブログには久しぶりの積雪の話題が綴られている。

 

京都市内でさえ20cm、故郷滋賀の湖東で30から50cm積もったらしい。ここ横浜ではまだオレは今シーズンは雪を見ていない。でも毎年2回くらいか?積雪を見る事がある。春までには1回くらい雪が積もるのではないかと思うが…。

 

天気予報などではよく「かなり寒い」的な言葉を聞くが、いや、もちろん寒いのだが、「そんなに言うほどか?」と思えなくもない。冬なんだから寒いのは当然だし、それは何も今年の冬に限った事ではない。

 

思えば、昔京都にいた頃は、最近の冬のように雪が積もったという記憶がない。積もったかな? 忘れてるだけかも。それよりも少年時代、故郷滋賀にいた時のほうが雪には馴染み深い。滋賀の湖東地方もそこそこ雪は降るほうで1メートルくらい積もるのはザラだったような気がするのだが。

 

そして、これはたしか前のブログ「狼は嘘をつかない」のほうにも以前書いたと思うんだけど、子供の頃田舎に住んでいて、前日は晴れていて何でもなかったのに、一夜明けると表は一面雪景色…なんて事がよくあったんだよ。そして雪ってね、「涔涔(しんしん)と降り積もる雪」って表現があるように、夜中に降ってる時、耳を澄ますと「しんしんしんしん…」って音がするんだよ。

 

おまけに真夜中にそんな音を聞いて外に出てみたらびっくり! あたり一面真っ白でめっちゃ明るかったんだよ。雪明かりってヤツ。今思い返せば「幻想的」とも言える光景だった。それにまったくと言っていいほど寒さが感じられなかった。子供心に感動した記憶がある。思わずそのへんを新雪を踏みしめて走り回った。

 

あと、小学校の時、授業中に雪が降り出して、やがて猛吹雪になり、教室の窓から見える校庭が完全にホワイトアウトし、隣の校舎も遊具もその向こうの景色も何も真っ白でまったく見えなくなった事もある。ただ窓のすぐ外側は、雪が上からだけではなく、横向けに飛んでいたり、下から上へ向かって上がって行ったりというのが見えて「すっげ〜〜!」とか思っていたのを思い出す。雪道の登下校も楽しかった。

 

あの頃はスキーも持っていたし、自分でソリも作って地元の神社の坂道で友達と遊んでいたっけ。当然、雪だるまを作ったり雪合戦もした。作って数日後の雪だるまのかわいそうな姿も見た。(笑)

 

それから、なんでそんな事を思いついたのか全然わからないけど、針金を持って山のほうへ行き、その針金で輪っかを作ってウサギをつかまえる罠を仕掛けたりもした。そのへんにウサギがいるなんて聞いた事も見た事もないのにね。子供っておもしろいね。

 

子供の頃はそんなふうに雪も友達みたいなもんだったけど、大人になってからはどちらかって言うと「やっかいもの」という印象が強いかも。交通ダイヤは乱れるし、歩いての移動も大変。せっかく晴れてもそれまでの積雪が解けて道はドロビチョ状態だもんね。凍ってたら滑ってコケる人もいる。オレはほぼ大丈夫だけどね。

 

だからね、今は出来れば降っても積もって欲しくないというのが正直な気持ち。その点では子供の心にはなかなか帰れないかもね。

 

 

 

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# がんばれ!女子高生

今日はテレビで女子高生を見ていた。

 

いやいや、ちゃんと言えば女子高生のサッカー、全日本高校女子サッカー選手権の決勝の試合だ。東京の十文字高校 vs 大阪の大商学園、どちらも初の決勝戦、勝てば初優勝だ。

 

結果としては、後半の中盤に十文字のキャプテンが放った見事なミドルシュートが、ゴール左上の隅っこに入っての一点が決勝点となって決着がついた。

 

しかし高校レベルの女子サッカーもなかなかおもしろい。90分間、選手たちの運動量もほとんど落ちないし、みんな周りがよく見えていて攻守に有効な動きを見せていた。

 

試合前の選手たちのニコニコ笑顔にはちょっと違和感を覚えはしたが、試合を見ているうちにそこはまあどうでもいいかって感じになり、この決勝戦を楽しんでいるのがわかり、こちらも楽しくなって来た。

 

選手たちがサッカーにおいて「まわりをよく見る」のはとても大事なこと。そうすることによって自ずと次のアクションが決まり、その展開によって、それがより良いものであればより良い結果が生まれる。判断を間違えばそれなりのものになるのだが、

 

いずれにしても「まわりをよく見る」ことをしなければ何も生まれない。選手として成長もしなければ未来もない。試合を見ていてオレはそういうふうに感じた。

 

「まわりをよく見る」・・・あれ? なんか、そのことでちょっと感動した出来事が最近あったっけなあ…。と、思い出せば、このブログの前の記事のことだ。これも女子高生の話で、道に散乱した紙類を、このままではじゃまになって車の往来を妨げる…と、一人でせっせと拾い集め、大きなゴミ袋に3袋分回収したって話。

 

そして彼女は警察から感謝状を贈られ、「今年はもっとまわりがよく見える一年にしたいです」と話したそうだ。

 

こういうのってスポーツも日常も同じだよね。まわりを見ていないとちゃんと動けないどころかまわりの人に迷惑をかけてしまうことだってある。そしてその自分の責任を認識しない限り、選手としても一人の人間としても成立も成長もしない。

 

今日見た試合のサッカーの女子選手たちも、前記事の女の子も女子高生だが、オレの知っている…と言うか見かける女子高生にはろくでもないのばっかりで、これがまったくまわりを見ていないのばかり。

 

地元の駅から家に帰る途中、下校中の女子高生たちとよくすれ違う。彼女たちはたいてい複数で歩いている。その際、彼女らが一列になってくれればスムーズにすれ違えるのだが、たとえ二列のままでもどうにかすれ違えるように狭い歩道のめいっぱい端っこをこちらが歩いてもまったく見てやしない。二列のまま、時には三列で、あるいはたとえ一人ででも平気でぶつかって来る。

 

避けるにしてもギリギリまで動かず結局体をこすって行く。カバンだけをぶつけて行く。わざとやってるわけじゃないのだろうが、結局は見ていないのだろう。お互いスムーズにすれ違うためにこちらがどう動いているのかをね。それをちゃんと見て、そして常識があれば早い段階でサッと一列になるなり二列でも体が当たらないように気をつけたり出来るはずなのだが。

 

こちらが普通に歩いている時に体の横にある腕を、さらに幅を小さくするために前にやったそのヒジにガツンとぶつかって来て「痛い!」って言った子もいるが、まったく情けない。ふつうに見ていればそんな痛い思いはせずに済む。むしろこっちのヒジの方が痛いよね。心も痛いし。ヒジに当たらなかったらしっかりこっちの腕か肩か胸にぶつかっていただろうし。

 

まあ、そんな女子高生ばっかり見てるので他の女子高生に対する印象もあんまりよくないのだけれど、今日のサッカーの試合や前記事の新聞に載った女子高生のような存在を知ると、そういったたった一面ではあるが、ちょっとさわやかな気分になるね。

 

とにかく女子高生は、これから大人になって結婚して子供を産んで母になり、そして子供を育てて行くわけだから、今のままではダメな子は、今からちゃんとまわりを見て適切な行動が出来る人になって欲しい。その上でいい子を育てて欲しい。

 

多分、子は親を見るし、親に似るんじゃないだろうか。何しろ、まわりを見ていないのは大人にだっていっぱいいるし、そういう大人に育てられてるんだから子供がそうなるのもうなずけるのだが。でもそれではいけない。

 

がんばれ!女子高生。君たちは世の中を良い方向に変えられるんだよ。男子もね。

 

女子サッカーからそんなことを思ってしまった今日でした。

 

 

 

 

 

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# みんなおんなじ

約5ヶ月前、「世の中の役に立たない障害者は必要ない」と障害者が大勢殺傷された事件が神奈川県相模原で起こった。

 

そのニュースを見て聞いて追悼し涙した人もいて、そうでもない人もいて、間接的に心に傷を負った人、事件のことなどもう忘れている人、とくに何とも思っていない人・・・いろんな人がいると思う。

 

ネット上には事件に関して様々な思いや意見が飛び交い、あろうことか犯人に同感できるという意見まで…。

 

ちょっと心配してしまうが、テレビで顔出しで「犯人の考えに同感してしまう」などと言う人がいた。「自分は一生懸命がんばって働いている」けど「障害者は生産性がなく我々の税金を使うだけで何の役にも立っていないではないか」だから「犯人の気持ちがわかる」…らしい。

 

だけどちょっと待った!

 

一生懸命がんばって働いている人は障害者の中にもたくさんいるぞ。健常者で何も生産していないような人もいっぱいいるぞ。それでいて我々の税金の恩恵にあずかっている人も。自分で動くことの出来ない障害者だって、その存在によって誰かの心を癒しているケースだって数多くあるぞ。そういう人たちのお世話をすることによって収入を得ている人もたくさんいる。ちなみにこのオレ自身もそういう人たちのおかげで生かされて、そして活かされている。

 

健常者に「役立たず」はいないのか? 何の生産もせず世の中に甘えて生きている人はいないのか? 何らかの障害があって働きたいのに働けない、なかなか職に就けない人がたくさんいることをオレは知っている。健常でいろいろなことが出来るはずなのにちゃんとしてない人のほうがタチが悪い気がする。

 

テレビに出ていた「犯人に同感する」人は、インタビュアーの「では、もし自分が年をとるなりして動けなくなった時は殺されても仕方ないと思うのか」という問いに「はい」ではなく、「まあ…そんな感じ」的な答えをし、「もし、その時誰かが殺しに来たら…?」には「それは…ちょっと怖いですね」と、歯切れが悪かった。

 

犯人の気持ちがわかるって、その視野の狭い浅薄な気持ちの一体何がわかると言うのか。犯人と同じく単に世間知らずなだけではないのか。

 

オレが犯人に関してわかることは、何の抵抗も出来ない自分より弱い相手を、しかも未明という皆が眠っている時に傷つけ大切な命を奪う…という卑怯さ、卑劣極まりなさ…なのだが。おそらく、偏ったものの見方しか出来ないような人間に育ってしまった、言ってみればとても気の毒な奴なのだと思う。

 

他のどんな事件でも同じ。悪事は悪事。卑怯は卑怯。下劣は下劣。・・・やっちゃダメなことはやっちゃダメ。

 

結局はみんな同じ。みんなこの世に生きている命。障害者にだって健常者にだって一生懸命がんばって生きている人はいる。がんばってもうまくいかない人もいる。

 

ただ、問題なのは、健常者の中に、まだまだ障害者も自分も同じ人間であるということが理解出来ない人がたくさんいるということ。圧倒的に障害者が不利な世の中で、健常者から迷惑やいろんな被害を受けているケースがものすごく多い。

 

健常者のほうがいろんな意味で余裕があるのは事実なのだから、その余裕を大いに使って、余裕のない人々をフォローして行くのはまったく自然なことなのだと、これからより多くの人が、それこそ自然に思えるようになって欲しいと切に思う。

 

 

 

 

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# 生きた年の数にビックリ!

オレは多分、ある時期から今まで「年齢観念」というものを持たずに生きて来たんだと思う。何しろ、もうすぐ新しい年が来るが、その新しい西暦の数字から自分の誕生年の数字を引いてみてビックリしたのだ。

 

  えーー!オレ今1985才 ?!!

 

いやいやいや、ちょと待ったちょと待った、西暦の数字から元号の生まれ年の数字引いてど〜すんだよ、ねえ。(笑)

 

まあ、冗談はさておいて…。しかしまともに計算してもそれでも、

 

 「エェッー!! 

  オレってもうこんなに生きて来たのかぁっ?!」

 

って、あらためて驚くのだ。どうにも実感がなくて…。

 

そしてオレはかつて…そう、多分…十代の終わり頃…、

 

「ジェームズ・ディーンは24才で死んだけど、オレなんかはきっとその倍は生きちゃうんだろうな。ジミーはあっという間に偉業を成し遂げて、早いうちに“命の力”全部使っちゃったんだもんな」


と思っていた。そして「オレの人生はせいぜい50年くらいあればいいや。その間にジミーほどじゃなくても何かちょっとでも誰かに何らかの影響を与えられるようなことが出来たら…」とも。


ところがどうよ…、オレがやって来たことと言ったら、ただただ時の流れに身を任せ、その時その時に出会ったもの、巡って来たものをおそらく本能的にセレクトし、やるべきこと・やりたいことと判断したらそれを、情熱的にでもなく猛烈にでもなく、自分が出来る範囲で、でも必要に応じてはがんばって、成り行き任せにやって来た程度。

 

やってて合わないものはそれなりにがんばって克服することもしたが、どうしても合わないものはやめたり捨てたりもした。無理をするのは嫌いだから。

 

ジェームズ・ディーンは生前、またその生の最後の瞬間にどう思ったか知らないが、オレは現時点で、あえて言えば波瀾万丈いろいろあったが、自分の人生の今までの流れをとても気に入っていてしあわせだと思っている。常にオレはしあわせなヤツだと思って生きているのだからそう言えるのも当然だろう。オレはそんな自分が好きだしね。(ここで「オレはナルシストだから」と書こうとしたんだけど、言葉の意味をよくよく調べたら、どうもそれにはちと当てはまらない気がしたよ。せいぜい「ナル」ってところか)

 

で、オレが昔「こんだけでいいや」と思った人生年数をいつの間にかけっこう超えてしまった今、「オレは何かを成し遂げたか…?」と自問してみたが即答「No」と出た。つまり、オレは今、常に何らかのことを成してはいるが遂げてはいない。

 

いや、その言い方も果たして正しいのかどうなのか…。たとえばオレ自身は「ジェームズ・ディーンは若くして偉業を成し遂げて逝った」「オレたちに素晴らしいレガシーを残して行ってくれた」と思っているが、ジミー本人はもしかしたら「まだ違う」「こんなんじゃない」「もっと出来るはず」「まだまだやれるんだ」と思ってメッチャ残念無念だったかも知れないのだから、スケールの大小はどうあれ、オレについてはまだ生きている今決めることじゃないし、自分自身で決めることでもないのかも知れない。

 

とにかくオレは、天はまだオレを逝かせてくれず生かしてくれてるってことは、まだまだやれること、やるべきことがあるんだろうと勝手に思うのだ。ジミーにとっての「映画」がそうであったように、もしかしたらオレにとっては今やっている仕事がそうなのかも知れないし、あるいは仕事以外のことも含めてすべてが「人生の仕事」として自分が成すべきことなのかも知れない。そしてそれは今までもやって来たのだろうし、これからもやり続けて行くことなのだろう。

 

そんなこんなを考えると、昔「50年でいいや」と思っていた人生は、それではとても足りないなと感じるようにもなって来た。つまり、オレはドーンととても大きなことをやっているわけではないから、のんびりじっくりゆっくりコツコツやるには結局「時」が必要になるわけだ。

 

また、小さなことだからと言って、そのやった結果をわざわざ集めて大きくしようとする気など毛頭ない。「その瞬間」「その時間帯」が良いものであれば。いずれにせよそれは何らかの形で勝手に蓄積される。

 

年齢観念を持って生きるのはオレにはとっても煩わしい。「今何才」「もうすぐ何才」なんて言うのはめんどくさいのだろう。だから今までほとんど意識せずに来たのだろう。オレにとってはそれは「年齢」と言うのではなく「あらためて思えばこんだけ生きて来たんだなあと思う単なる年の数」あるいはそういう「年の量」とでも言おうか…。だからあえて口にするものでもなく、聞かれてもすぐに思い出せないものなのだ。何かの書類に書く必要がある時もスラスラと書けない。思い出すのに時間がかかる。

 

何年生きても自分は未熟だと思う。あの、オレに「独立心」が芽生えた十代半ばの頃との違いがそれほどわからない。そしていつかそのうちこのまま今生を終えるのかも知れない。いや、「熟す」ってどういうことなのかすらわからない。

 

自分でも笑ってしまうが、多分十代の終わり頃に自分が書いた詞の一節に「この命、好きで生まれたこの世じゃないが、せめて燃やすさ尽きるまで」というのがある。まさにその通り、ただただ生きる。いろんなことをしながら生きる。瀬戸内寂聴さんの言葉をお借りすれば…切に生きる! でも無理せずのんびり楽しみながら…ね。

 

さてさて、オレはあとどのくらい今生を生かされるのだろう。

 

 

 

 

 

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# 聴導犬という素晴らしい犬がいるらしいが…

目の不自由な人たちを助ける盲導犬はよく知られているが、

 

耳の不自由な人たちのために「聴導犬」というのがいるらしい。

 

いつも一緒にいて、その人の代わりに音を聞いて来客や電話、携帯メールなど様々な音を聞いて教えてあげることが出来るという。

 

ただ、

 

その働きぶりをテレビで紹介していたのだが、その中に聴導犬とその利用者が道を歩き、車が接近しているのを知らせるという場面があった。

 

そしてたしかに聴導犬は上手に役目を果たしていた。

 

しかしどうにも疑問なのは、

 

その人と聴導犬が道路の左側を歩いていたということ。

 

とても残念なことに障害・健常・老若男女関わらず道の左側を歩く人は掃いて捨てたいほどいる。


今さら考えなくてもわかることだが、この日本では自動車は道路の左側を走ることになっている。なのに歩行者が左側を歩いたらどうなる?

 

後ろから左側を走って来る車をわざわざしょっちゅう気にして歩かないと危なくってしょうがない。

 

そして車のドライバーは、左側を歩いている人が「ちゃんと自分の車が接近しているのがわかっているのか」「もしかしてふらっと車道にはみ出して来ないだろうか」などと余計な心配をしないといけない。実際、車を運転される方はよくご存知のように、うしろから来る車になかなか気づかない歩行者はイヤというほどいる。

 

また、前からあたりまえに右側をちゃんと歩いて来る人は、左側を歩いて来る人がちゃんと避けて行ってくれるのか、こちらがわざわざ避けてあげないといけないのか不安になる。

 

オレの場合は、こちらは右側を歩いているのだから堂々と…と言うか普通に歩くのだが、左側を歩いて来るその人はオレに気づいているのかいないのか、避けようともせずに平気でぶつかって来られたり、避けても何故かギリギリのところで結局体をこすって行ったり、最後まで不安感を抱かされイヤな気分にさせられるケースが多い。

 

…というように左側歩行は「危険」と「迷惑」ばっかりでまったくいいことなし。

 

それなのにこういうすばらしい聴導犬の紹介で、道路の左側を歩いている映像を流すのはどうなんだろう。その撮影クルー、編集の人たち、オンエアにGOを出す責任ある人、さらにはそのテレビ局は、撮影対象に道路の左側を歩かせて何とも思っていないのだろうか。わざとそうしているとしたら、その目的が全然わからない。そこに説得性・必要性は本当にあるのだろうか。

 

あたりまえに右側を歩く、ただそれだけで安全性ははるかに高まると思うのだが…、なんで人々は左側を歩き、わざわざ危険やトラブルへと向かって行くのだろう。オレにはとても理解できない。

 


こんなことを言うからと言って、オレが絶対左側を歩かないなどということはないので誤解なきよう。それはケースバイケース。ただ、オレは「今自分がどこにいて何をしているのか」「まわりとの距離感や関係性」などは常に意識している。だから左側を歩いてもよいなどということはないが、何も考えずに好き勝手に歩いて他人に迷惑をかけるよりはかなりマシだと思っている。

 

 

 

 

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OMOUKOTO(おもうこと)
つぶやきはあくまでつぶやきであって、それがたとえつぶやいた本人の本心であっても、「あー、腹減ったなー」程度のレベルのもので、他人を巻き込んだり、何か重要なことを決定するものでもなければ、真剣に受け取らなければいけないものでもない。だが時につぶやきは、そのつぶやき方によっては、それを聞いた者にとてつもない不快感や災いを与えたり、傷つけたりすることがある。ともすれば、人を死なせてしまうことさえも…。つぶやきはわざわざ他人に聞かせるものではない。一人でボソリと口にすればいいものだと思う。20170201
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