狼はブラックコーヒーが好き

ブラックコーヒーみたいなブログ…かな? たまには砂糖やミルク、入れることもあるかも        
みんなおんなじ
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    約5ヶ月前、「世の中の役に立たない障害者は必要ない」と障害者が大勢殺傷された事件が神奈川県相模原で起こった。

     

    そのニュースを見て聞いて追悼し涙した人もいて、そうでもない人もいて、間接的に心に傷を負った人、事件のことなどもう忘れている人、とくに何とも思っていない人・・・いろんな人がいると思う。

     

    ネット上には事件に関して様々な思いや意見が飛び交い、あろうことか犯人に同感できるという意見まで…。

     

    ちょっと心配してしまうが、テレビで顔出しで「犯人の考えに同感してしまう」などと言う人がいた。「自分は一生懸命がんばって働いている」けど「障害者は生産性がなく我々の税金を使うだけで何の役にも立っていないではないか」だから「犯人の気持ちがわかる」…らしい。

     

    だけどちょっと待った!

     

    一生懸命がんばって働いている人は障害者の中にもたくさんいるぞ。健常者で何も生産していないような人もいっぱいいるぞ。それでいて我々の税金の恩恵にあずかっている人も。自分で動くことの出来ない障害者だって、その存在によって誰かの心を癒しているケースだって数多くあるぞ。そういう人たちのお世話をすることによって収入を得ている人もたくさんいる。ちなみにこのオレ自身もそういう人たちのおかげで生かされて、そして活かされている。

     

    健常者に「役立たず」はいないのか? 何の生産もせず世の中に甘えて生きている人はいないのか? 何らかの障害があって働きたいのに働けない、なかなか職に就けない人がたくさんいることをオレは知っている。健常でいろいろなことが出来るはずなのにちゃんとしてない人のほうがタチが悪い気がする。

     

    テレビに出ていた「犯人に同感する」人は、インタビュアーの「では、もし自分が年をとるなりして動けなくなった時は殺されても仕方ないと思うのか」という問いに「はい」ではなく、「まあ…そんな感じ」的な答えをし、「もし、その時誰かが殺しに来たら…?」には「それは…ちょっと怖いですね」と、歯切れが悪かった。

     

    犯人の気持ちがわかるって、その視野の狭い浅薄な気持ちの一体何がわかると言うのか。犯人と同じく単に世間知らずなだけではないのか。

     

    オレが犯人に関してわかることは、何の抵抗も出来ない自分より弱い相手を、しかも未明という皆が眠っている時に傷つけ大切な命を奪う…という卑怯さ、卑劣極まりなさ…なのだが。おそらく、偏ったものの見方しか出来ないような人間に育ってしまった、言ってみればとても気の毒な奴なのだと思う。

     

    他のどんな事件でも同じ。悪事は悪事。卑怯は卑怯。下劣は下劣。・・・やっちゃダメなことはやっちゃダメ。

     

    結局はみんな同じ。みんなこの世に生きている命。障害者にだって健常者にだって一生懸命がんばって生きている人はいる。がんばってもうまくいかない人もいる。

     

    ただ、問題なのは、健常者の中に、まだまだ障害者も自分も同じ人間であるということが理解出来ない人がたくさんいるということ。圧倒的に障害者が不利な世の中で、健常者から迷惑やいろんな被害を受けているケースがものすごく多い。

     

    健常者のほうがいろんな意味で余裕があるのは事実なのだから、その余裕を大いに使って、余裕のない人々をフォローして行くのはまったく自然なことなのだと、これからより多くの人が、それこそ自然に思えるようになって欲しいと切に思う。

     

     

     

     

    JUGEMテーマ:テレビ番組

    | 思うこと | 23:21 | comments(7) | trackbacks(0) | ↑TOP
    生きた年の数にビックリ!
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      オレは多分、ある時期から今まで「年齢観念」というものを持たずに生きて来たんだと思う。何しろ、もうすぐ新しい年が来るが、その新しい西暦の数字から自分の誕生年の数字を引いてみてビックリしたのだ。

       

        えーー!オレ今1985才 ?!!

       

      いやいやいや、ちょと待ったちょと待った、西暦の数字から元号の生まれ年の数字引いてど〜すんだよ、ねえ。(笑)

       

      まあ、冗談はさておいて…。しかしまともに計算してもそれでも、

       

       「エェッー!! 

        オレってもうこんなに生きて来たのかぁっ?!」

       

      って、あらためて驚くのだ。どうにも実感がなくて…。

       

      そしてオレはかつて…そう、多分…十代の終わり頃…、

       

      「ジェームズ・ディーンは24才で死んだけど、オレなんかはきっとその倍は生きちゃうんだろうな。ジミーはあっという間に偉業を成し遂げて、早いうちに“命の力”全部使っちゃったんだもんな」


      と思っていた。そして「オレの人生はせいぜい50年くらいあればいいや。その間にジミーほどじゃなくても何かちょっとでも誰かに何らかの影響を与えられるようなことが出来たら…」とも。


      ところがどうよ…、オレがやって来たことと言ったら、ただただ時の流れに身を任せ、その時その時に出会ったもの、巡って来たものをおそらく本能的にセレクトし、やるべきこと・やりたいことと判断したらそれを、情熱的にでもなく猛烈にでもなく、自分が出来る範囲で、でも必要に応じてはがんばって、成り行き任せにやって来た程度。

       

      やってて合わないものはそれなりにがんばって克服することもしたが、どうしても合わないものはやめたり捨てたりもした。無理をするのは嫌いだから。

       

      ジェームズ・ディーンは生前、またその生の最後の瞬間にどう思ったか知らないが、オレは現時点で、あえて言えば波瀾万丈いろいろあったが、自分の人生の今までの流れをとても気に入っていてしあわせだと思っている。常にオレはしあわせなヤツだと思って生きているのだからそう言えるのも当然だろう。オレはそんな自分が好きだしね。(ここで「オレはナルシストだから」と書こうとしたんだけど、言葉の意味をよくよく調べたら、どうもそれにはちと当てはまらない気がしたよ。せいぜい「ナル」ってところか)

       

      で、オレが昔「こんだけでいいや」と思った人生年数をいつの間にかけっこう超えてしまった今、「オレは何かを成し遂げたか…?」と自問してみたが即答「No」と出た。つまり、オレは今、常に何らかのことを成してはいるが遂げてはいない。

       

      いや、その言い方も果たして正しいのかどうなのか…。たとえばオレ自身は「ジェームズ・ディーンは若くして偉業を成し遂げて逝った」「オレたちに素晴らしいレガシーを残して行ってくれた」と思っているが、ジミー本人はもしかしたら「まだ違う」「こんなんじゃない」「もっと出来るはず」「まだまだやれるんだ」と思ってメッチャ残念無念だったかも知れないのだから、スケールの大小はどうあれ、オレについてはまだ生きている今決めることじゃないし、自分自身で決めることでもないのかも知れない。

       

      とにかくオレは、天はまだオレを逝かせてくれず生かしてくれてるってことは、まだまだやれること、やるべきことがあるんだろうと勝手に思うのだ。ジミーにとっての「映画」がそうであったように、もしかしたらオレにとっては今やっている仕事がそうなのかも知れないし、あるいは仕事以外のことも含めてすべてが「人生の仕事」として自分が成すべきことなのかも知れない。そしてそれは今までもやって来たのだろうし、これからもやり続けて行くことなのだろう。

       

      そんなこんなを考えると、昔「50年でいいや」と思っていた人生は、それではとても足りないなと感じるようにもなって来た。つまり、オレはドーンととても大きなことをやっているわけではないから、のんびりじっくりゆっくりコツコツやるには結局「時」が必要になるわけだ。

       

      また、小さなことだからと言って、そのやった結果をわざわざ集めて大きくしようとする気など毛頭ない。「その瞬間」「その時間帯」が良いものであれば。いずれにせよそれは何らかの形で勝手に蓄積される。

       

      年齢観念を持って生きるのはオレにはとっても煩わしい。「今何才」「もうすぐ何才」なんて言うのはめんどくさいのだろう。だから今までほとんど意識せずに来たのだろう。オレにとってはそれは「年齢」と言うのではなく「あらためて思えばこんだけ生きて来たんだなあと思う単なる年の数」あるいはそういう「年の量」とでも言おうか…。だからあえて口にするものでもなく、聞かれてもすぐに思い出せないものなのだ。何かの書類に書く必要がある時もスラスラと書けない。思い出すのに時間がかかる。

       

      何年生きても自分は未熟だと思う。あの、オレに「独立心」が芽生えた十代半ばの頃との違いがそれほどわからない。そしていつかそのうちこのまま今生を終えるのかも知れない。いや、「熟す」ってどういうことなのかすらわからない。

       

      自分でも笑ってしまうが、多分十代の終わり頃に自分が書いた詞の一節に「この命、好きで生まれたこの世じゃないが、せめて燃やすさ尽きるまで」というのがある。まさにその通り、ただただ生きる。いろんなことをしながら生きる。瀬戸内寂聴さんの言葉をお借りすれば…切に生きる! でも無理せずのんびり楽しみながら…ね。

       

      さてさて、オレはあとどのくらい今生を生かされるのだろう。

       

       

       

       

       

      JUGEMテーマ:日常

      | 思うこと | 23:27 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑TOP
      聴導犬という素晴らしい犬がいるらしいが…
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        目の不自由な人たちを助ける盲導犬はよく知られているが、

         

        耳の不自由な人たちのために「聴導犬」というのがいるらしい。

         

        いつも一緒にいて、その人の代わりに音を聞いて来客や電話、携帯メールなど様々な音を聞いて教えてあげることが出来るという。

         

        ただ、

         

        その働きぶりをテレビで紹介していたのだが、その中に聴導犬とその利用者が道を歩き、車が接近しているのを知らせるという場面があった。

         

        そしてたしかに聴導犬は上手に役目を果たしていた。

         

        しかしどうにも疑問なのは、

         

        その人と聴導犬が道路の左側を歩いていたということ。

         

        とても残念なことに障害・健常・老若男女関わらず道の左側を歩く人は掃いて捨てたいほどいる。


        今さら考えなくてもわかることだが、この日本では自動車は道路の左側を走ることになっている。なのに歩行者が左側を歩いたらどうなる?

         

        後ろから左側を走って来る車をわざわざしょっちゅう気にして歩かないと危なくってしょうがない。

         

        そして車のドライバーは、左側を歩いている人が「ちゃんと自分の車が接近しているのがわかっているのか」「もしかしてふらっと車道にはみ出して来ないだろうか」などと余計な心配をしないといけない。実際、車を運転される方はよくご存知のように、うしろから来る車になかなか気づかない歩行者はイヤというほどいる。

         

        また、前からあたりまえに右側をちゃんと歩いて来る人は、左側を歩いて来る人がちゃんと避けて行ってくれるのか、こちらがわざわざ避けてあげないといけないのか不安になる。

         

        オレの場合は、こちらは右側を歩いているのだから堂々と…と言うか普通に歩くのだが、左側を歩いて来るその人はオレに気づいているのかいないのか、避けようともせずに平気でぶつかって来られたり、避けても何故かギリギリのところで結局体をこすって行ったり、最後まで不安感を抱かされイヤな気分にさせられるケースが多い。

         

        …というように左側歩行は「危険」と「迷惑」ばっかりでまったくいいことなし。

         

        それなのにこういうすばらしい聴導犬の紹介で、道路の左側を歩いている映像を流すのはどうなんだろう。その撮影クルー、編集の人たち、オンエアにGOを出す責任ある人、さらにはそのテレビ局は、撮影対象に道路の左側を歩かせて何とも思っていないのだろうか。わざとそうしているとしたら、その目的が全然わからない。そこに説得性・必要性は本当にあるのだろうか。

         

        あたりまえに右側を歩く、ただそれだけで安全性ははるかに高まると思うのだが…、なんで人々は左側を歩き、わざわざ危険やトラブルへと向かって行くのだろう。オレにはとても理解できない。

         


        こんなことを言うからと言って、オレが絶対左側を歩かないなどということはないので誤解なきよう。それはケースバイケース。ただ、オレは「今自分がどこにいて何をしているのか」「まわりとの距離感や関係性」などは常に意識している。だから左側を歩いてもよいなどということはないが、何も考えずに好き勝手に歩いて他人に迷惑をかけるよりはかなりマシだと思っている。

         

         

         

         

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        | 思うこと | 00:52 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑TOP
        サプライズはハッピーに
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          世の中は「驚き」で満ち満ちている。

           

          トランプがアメリカの大統領になってしまったこともそうだが、それよりももっともっと我々の身近なことでも数多くある。

           

          そのうちのひとつ、

           

          先日、神宮外苑で行われたアートイベントで、木製のジャングルジムを大鋸屑(おがくず)で装飾し、その中に投光器を入れておいたところ火災が起こり子供が一人亡くなっちゃった痛ましい事件…。

           

          それを受けてテレビ各局、その原因を探る実験をし放送していた。

           

          たとえばクローゼットの中、天井のダウンライトに収納物(衣類だったり布団だったりペーパー類だったり)がライトにかぶるくらいに詰まっていて、もしそのライトが点いていた場合、それは外からはわからない。そして中では、ライトは時間が経って高熱を発し、それによって発火し火災となる可能性が大いにある…

           

          というようなものがあったが、さらにそれを聞いてある主婦がテレビのインタビューで、

           

          「えーー?! ダウンライトでそんなことに?! ちょっとびっくりですねえ」

           

          などと答えていた。

           

          驚いた!! こっちのほうがビックリだ!

           

          そんなのちょっと考えればわかるだろーに。いや、今さらわざわざ考えなくても知ってて欲しい。


          これを驚かずして一体何を驚ろこう!! こうなりゃお化けが出たってビックリしない。まったくこわくない。それよりもこういう人の存在の怖さと言ったらその比じゃないね。

           

          こういう人が一体どんだけいるんだろう。想像力のない人、あるのにちっとも使わない人、物事を考えるということをしなくなった人が…。

           

          だから世の中事件が多いんだ。だからあちこちで事故が起こるんだ。そこここにトラブルが転がっている。…と思わざるを得ない。あたりまえのことがみんなわからなくなってしまっているのか…。

           

          サプライズはハッピーなほうでお願いしたい。つくづくそう思う。

           

           

           

           

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          | 思うこと | 23:22 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑TOP
          スマホは人を殺すこともある
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            続けて今回も「歩きスマホ」の話。

             

            彼らにとって「命」って一体何なんだろーね。…と、つくづく思う。

             

            ここで言う彼らとは「歩きスマホをする人たち」のこと。

             

            こないだテレビのニュースで、
            夜、歩きスマホをしている女の人がだんだん道をそれて行ってドボンと川に落ちる映像を見た。

             

            一瞬「わっ、大変!」と思ったが、そのあとの「女性は川から引き上げられ病院に運ばれましたが、その後死亡しました」というナレーションを聞いて思わず笑ってしまった。

             

            人が亡くなって笑うとは何事か…ってなもんだが、


            なんで目に見えてヤバイってわかってることをわざわざやるの?! バッカじゃないの! 情けない…、とにかく、「やっちゃいけないこと」をあたりまえのようにやって自らバカを見ているその愚かさに対する苦笑とでも言おうか…。常識人なら有り得ない事故なワケだし。

             

            たとえばこれも最近あった、ポケGOやりながら車を運転して人を撥ね殺してしまったとか、ただ人とぶつかった、ぶつかりそうになったってのも同じ。やっちゃいけないことをやって人をおどかしたり迷惑をかけたり、また、人を死なせ、自分も破滅。家族やまわりの人々も悲しませている。

             

            それが自分の命を失うにしても他人の命を奪うにしても、やっちゃいけないことをやってさえいなければ起こり得ないのだから、愚かとしか言いようがないね。

             

            自分のも他人のも「命」は粗末にするもんじゃない。

             

            「歩きスマホ」じゃなくても、たとえば朝の通勤時、電車の中でまわりを見れば、恐ろしくなるほどほとんどの人がジーッと手にしたスマホを見ている。そしてこの中のほとんどの人が電車を降りてもそのまま歩くんだろーナと想像できるが、そういった人たちが図らずも人を死なせたり迷惑をかけたり、あるいは自滅に向かっている予備軍だと思うとゾーーッとするね、ホントに。

             

            たまたまこれを読んでくれているあなたが、もしかしてもしかするとそういう人だったらメッチャ残念。悲しい。そうじゃないよね。ちゃんとわかってるよね。

             

            スマホは今や大事なツールだけど、スマホなんかに心も体も支配されないで。

             

             

             

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            | 思うこと | 02:28 | comments(3) | trackbacks(0) | ↑TOP
            「歩きスマホをやめよう!」キャンペーン?
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              「歩きスマホをやめよう」キャンペーン実施!

               

              …だそーだが、

               

              一体どーゆー方法でするんだろーか。

               

              そもそも歩きスマホをしている人のほとんどは、まわりを見ていない、人の声を聞いていない。スマホ以外に無関心。ということはポスターは見ない、アナウンスしてもダメなわけで、「見る」目を持たない、「聞く」耳を持たない、その「心」もない…ってことだから。

               

              さて、どういうキャンペーンをしよーってのかナ? どうすれば彼らに伝わり、効果を得られるんだろーかネ。

               

               

               

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              | 思うこと | 13:47 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑TOP
              バスもバスなら人も人
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                仕事上よく利用するバス停がある。
                その停留所は交差点のチョイ手前、軽いカーブのところにある。だから、対向車とのすれ違いがかなり困難なため、バスはいつもバス停に停まらず、そのちょっと手前の少し離れたところに停まる。最初は戸惑ったがすぐに慣れた。それからはいつも乗車ドアが来る位置で待つようになった。

                 

                しかし不思議なのは他の人々。
                おそらく地元の人だろうが、何故かいつもバラバラの位置で待っている。バス停の位置でもなく、実際にバスが止まる位置でもなく、ちょっと広くなっているその辺に点々と立っている。その心理は勝手にはいくらでも想像はできるが、インタビューなどしないので真意はわからない。

                 

                そして今日…、
                仕事が終わってバスで帰るためにそのバス停に行った。その時、バス停から約1メートル離れたところに女の人が一人いて、さらに人二人分くらい離れて男の人が一人立っていた。雨が降っていた。オレがそこへ行くとちょうどバスが来るところで、オレは傘を閉じながらいつも乗車ドアが来る位置に立った。バスが来てオレの前に停まった。

                 

                だがドアが開かない…。
                運転手がマイクで「先頭の方からご乗車ください」と言った。「あたりまえでしょ。だから早くドアを開けてよ、雨降ってんだから」と思った。するともう一度「先頭の方からご乗車ください」と言いながらやっとドアが開いた。「言われなくてもわかってるよ」と思いながらオレはすぐ目の前の開いたドアから乗車した。

                 

                雨が降る中…、
                スムーズにバスに乗り込めるように前もって傘を閉じて待っているのに、スムーズにドアを開けてくれないなんて意地悪な運転手だなと少々ムッとした。

                 

                ちょっと気分を害されたが、
                運転手はどうやらオレが先頭だとは考えていなかったと推察できる。オレはオレが先頭だと思っていたから普通に先に乗った。そこらに点々と立っていた女の人も男の人も、その余裕は充分にあったにもかかわらず運転手の言葉に従わず普通にオレのあとから乗り込んで来たのだから、自分が先頭だとは思っていなかったと思われる。オレからすれば彼らはバスを待つために並んでさえいなかった。

                 

                オレは…、
                バスはバス停に停まらないといけないと思う。そこが不都合で、やむを得ずいつもズレた場所に停まるならそこをバス停にしないといけないと思う。一度、バス停からズレたいつもの停車位置でオレが待っていると、何故かバス停の位置にバスが停まったことがある。いくら「その時は信号の都合やすれ違う車がなかったから」という理由からだとしても、バス会社(横浜市バス)がそんな不安定なことをしてくれては困る。安定させてくれないと利用者側は混乱する。

                 

                そしてバス停に並ぶ人も…、
                並ぶんなら先頭がしっかりとわかるように、それに続く人たちは無闇に間隔を空けずにちゃんと並ばないといけないと思う。駅のホームでもそうだが、並ぶのが好きな日本人のくせして、無駄に間隔を空けたりまっすぐじゃなかったりと、並ぶのが本当にヘタクソだと思う。オレは並ぶのが大嫌いだが、並ばなきゃならない時はちゃんと並ぶようにしている。だけどまわりがみんな違うからどうにもやりづらい。

                 

                 

                 

                 

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                | 思うこと | 16:12 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑TOP
                いろいろ病院、大丈夫?
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                  横浜市の大口病院での点滴殺人事件のニュースが連日流れている。入院棟4階で短期間に40人以上の入院患者が亡くなっているという異常事態。

                   

                  先日見たニュースで入院患者の家族がインタビューに答えて、「病院の人はみんないい人。本当にいい病院ですよ」と言ったそのあとに「こうやって事件が起こって思い返せば、点滴の準備なんかどっかそこら辺でやっていて、あれじゃ誰でも何かしようと思えば簡単に出来ちゃうね。大丈夫なのか?ここの管理体制は…と女房とよく話してましたね」と言っていた。

                   

                  たしかにそこで働く人たちはいい人たちなのかも知れない。だからと言って、そこがいい病院だとは限らない。オレなどは、ひとつおかしなことがあると「他の部分は大丈夫なのか?」とどうしても思ってしまうのだが。病院などの大きな責任を抱えるところだととくにね。

                   

                  以前このブログで「喫煙天国病院」として紹介した、オレが仕事で定期的に通う、同じく横浜市にある精神科の病院も、一番最初に行った時から驚愕のシーンを目撃し、「大丈夫か??ここ」と思った。

                   

                  どういうつもりなのか外来入口扉の真ん前が喫煙所になっていて、患者さんたちがたむろしてスパスパやっており、タバコのケムリとニオイに満ち満ちていたのだ。それは入口の扉が開閉される度に中の待合室に流れ込んで来て、「病院なのに、しかも多くの患者さんなどが出入りする場所なのに…」と大いに疑問を持った。

                   

                  その件を意見箱に何度投書しても無反応。副院長(?)に直接話をしても「今はタバコの吸える病院は他にはなかなかないからねえ」とむしろ自慢気だったのにもびっくりした。

                   

                  それからずいぶんしてからそこの灰皿が、出入り口からほんのちょっと離れたところに移動されたが、問題はニオイやケムリだ。密閉などしてないから漂いまくり、まったくと言っていいほど効果なし。

                   

                  ついでに入り口扉の内と外に、お年寄りや足の悪い患者さんのために(と思うのだが)スロープが作られたが、入り口の重い扉が邪魔をしてとても通りづらい。おまけに「反対側(スロープのない側)の扉を開けてお通りください」みたいな張り紙が! それじゃ今度はスロープへの段差を上がり下りしなければならない。まったくスロープの意味なし。

                   

                  これら以外にも、院長(?)のある患者さんに対する言動に関する疑問や、院内薬局の患者への応対の仕方に関する疑問などもあったりするんだけど、さらに長くなるので省略。

                   

                  ホントのホントにこの病院、大丈夫なのか?! と思っていたら、先月にはあろう事かこの病院でも殺人事件が起こった。

                   

                  こちらは入院患者さん同士のトラブルによるもので大口病院のとはちょっと違うかも知れないが、いずれにしてもあるまじき出来事。

                   

                  ただオレには、前述したような疑問だらけのところだけに、ここなら何が起こっても不思議はない、むしろ起こらないほうが不思議なような気がしていた。まさか「人死に」が…とは思ってなかったが、いろんな細かいところがちゃんとしていないのでは、その積み重ねによって問題は発生しやすくなり、それくらいの大事に発展してもおかしくないのかも知れない。

                   

                  病院はHPに「ご報告」という形で「……事故発生の防止、対策などの鋭意努力を図っており、当日、法律に則った看護体勢をとっておりましたが、それでも生じてしまった、……非常に遺憾…ご迷惑をおかけしていることに心より申し訳なく思っております。……」と出しているが、「あくまで患者間のトラブルで、ウチには責任ありませんよ」的な印象を受ける。

                   

                  いくら法律に則ってやっていてもそれはあたりまえのことで別に褒められることじゃない。大切なのはそれ以外にある。病院業務はそれは大変なことで苦労も多いのだろうが、人としてもっと基本的・根本的な何かがないといけない気がする。

                   

                  患者は病院を信頼して命を預けている。病院の人々はその命を預かることによっておまんまをいただき自分の命を保っている。命が宿るかたまりが「人」なわけで、それは自分の命を保つための「人」。

                   

                  もちろん「人」のステージは病院だけじゃない。オレたちが生きて動いているすべての場所がステージなのだから、やっぱ誰にとっても「人」って大事なんだよなー…って思う。

                   

                   

                   

                   

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                  | 思うこと | 19:54 | comments(2) | trackbacks(0) | ↑TOP
                  近頃のコーヒーショップって…
                  0

                    例によってそこそこ長いし。とくに重要な話でもなくペラッペラのこと書いてるだけだから、よっぽどヒマじゃなきゃスルーしてくださいね。

                     


                    休日には思いっきり声を出したくて、わりとよく一人カラオケに行くのだが、時には気に入りのジョイサウンドの部屋が空いてないこともある。

                     

                    今日、そうだった。1時間半待ちだそうで、「じゃあその時間にまた来るね」と予約して、久々にスタバに入ってコーヒーを飲みながら仕事に関するノート書きをして時間を過ごすことにした。


                    しかし、やはり最近のスタバは落ち着かないねー。場所柄、客層、時間帯などいろんな条件にもよるのだろーが、それでもこの地元のスタバのオープン当初とはずいぶん違う気がする。

                     

                    当時は全面禁煙のスタバは多くの人々にとって不都合なのかどーなのか、比較的客も少なく、オレとしては落ち着いて長くくつろぐことが出来た。まあその頃はオレも多少ヒマだったってこともあるが…。

                     

                    最近のスタバのオレの感想は、「平日の真っ昼間、ずいぶんヒマな人が多いなあ」…だ。イヤ、たまたまオレ同様、今日が休みでくつろぎに来ているのかも知れないし、仕事の合間休憩しているのか、あるいは仕事が終わって一息ついているのかも知れないけどね。

                     

                    まあそれはいいんだが、お客が多いということはその分出入りも激しいということで、ましてや、今のコーヒーショップのシステムはカウンターで自分で商品を買って自分でテーブルに運び、帰りも自分で所定のところに食器やゴミを持って行くというセルフサービス。くつろいでいる横を人がいっぱい動くということになる。

                     

                    おまけに入店したら1階なり2階なりのフロアを回って空いている席があるかどーか確認し、荷物を置いてからカウンターに行って商品を購入しまた席に戻って来るということになる。落ち着くまでに時間がかかるし、すでに座って落ち着いていても横をチョロチョロ何度も人が通ると、やっぱ落ち着かなくなってしまう。

                     

                    今日なんか2階フロアの入り口すぐのソファーの席でコーヒーを飲んでたら、大学生くらいの女の子が一人二人と入って来てオレのそばで立ち止まり、「やっぱ空いてないね」「あそこのテーブルにイス集める?」とか相談し、そこへ行ったかと思うと、また一人入って来て、また一人、また一人…とゾロゾロゾロゾロ、いったい何人の集団なんだと思うほどやって来て集結し、結局座れないのかまたゾロゾロゾロゾロと全員出て行った。

                     

                    見ようによってはおもしろい光景とも言えるけど、一人か二人で見に来れば済む話だと思えば、情けないとゆーか滑稽とゆーか、人間の未来に不安を感じさせるとゆーか、複雑な気持ちで落ち着かなかったよ。

                     

                     

                    念のために書いておくけど、「だったらそんなところへ行かなければいい」なんてわざわざわかりきったことは言わないでくださいね。現にオレはほとんど行ってないし、たまたま行ったらこうだったってだけの、言ってみればどーでもいい話なんだから。

                     

                     

                     

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                    | 思うこと | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑TOP
                    テレビにくぎづけされたのは何?
                    0

                      「痛み」を連想してしまうコトバがある。

                       

                      「くぎづけ」というコトバだ。それはほとんどテレビから聞こえて来るコトバで、別な理由もあって聞く度にキモチ悪くなる。

                       

                      「メダルラッシュのオリンピック! 日本中がテレビにくぎづけになりました!」

                       

                      何も考えなければ、あるいは大ざっぱに考えればそれで通らなくもないかも知れない。しかしオレの記憶では、正しくは「目がくぎづけになる」「目をくぎづけにされる」…と、そこには「目」が必要だったハズ。文字通りを想像するとますます痛いしけっこうグロテスクだ。

                       

                      だって「日本中がテレビにくぎづけ」って言われても、くぎづけにされる「日本中」って一体何よ?…って思わない?

                       

                      つまりは「視線を外せない」「そこを注視する」といったよーな意味にしたいわけだから「くぎづけ」だけでは意味を成さずどーもキモチ悪い。かと言って「目がくぎづけ」もさっき言ったよーに痛々しい。

                       

                      その言葉を使っているのはほとんどがテレビの中の人たち、アナウンサーやらキャスターやらリポーターやら…。プロならば、「くぎづけ」というコトバを使いたいなら、正確に、もちっとセンス良く使えないものだろーか。

                       

                      せめて「メダルラッシュのオリンピック! 日本中の人々の視線をくぎづけにしました!」くらいに。「テレビに」というふうにくぎづけにする対象物を言うとそれこそ具体的に想像してしまって痛みを感じるのでそれを省くとか…。

                       

                      まあオレはプロじゃないし、決してセンスがあるわけでもなく、この程度しか思いつかないけど、ホントのプロならどんなふうに言うんだろー。少なくとも「日本中がテレビにくぎづけ」はないと思うが。

                       

                       

                       

                       

                      JUGEMテーマ:コトバ

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                      OMOUKOTO(思うこと)
                      つぶやきはあくまでつぶやきであって、それがたとえつぶやいた本人の本心であっても、「あー、腹減ったなー」程度のレベルのもので、他人を巻き込んだり、何か重要なことを決定するものでもなければ、真剣に受け取らなければいけないものでもない。だが時につぶやきは、そのつぶやき方によっては、それを聞いた者にとてつもない不快感や災いを与えたり、傷つけたりすることがある。ともすれば、人を死なせてしまうことさえも…。つぶやきはわざわざ他人に聞かせるものではない。一人でボソリと口にすればいいものだと思う。20170201
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